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【アラベスク】  第17章 来し方の楔



第4節 白梅 [1]




 魁流は両手を合わせる。目を閉じる。そうしてしばらく祈り、やがて立ち上がった。目の前の墓石。もう何年も来なかった。
 織笠鈴の眠る墓。
 雑木林のすぐ横。周囲に広がるのは田畑。遠くには低い山。まだ薄暗い早朝。墓地を訪れる者はいない。
 ずっと、心の()り所だった。鈴と一緒に居ると心地よかった。気持ちが落ち着いて、不安が和らいで、弱い自分を忘れる事ができた。
 大好きだった。今でも、大好きだ。
 だが、好きだという感情に乗じて、自分は鈴を、逃げ場所にしていたのではないだろうか?
 じゃあ、鈴は?
 視線を落す。
 鈴は自分を、想ってくれてはいたのだろうか?
 そんな疑問を(いだ)いた事は無い。想われていたと信じている。だが、今は少し、疑ってもいる。
 交際を明確な言葉にした事は無い。だから、小窪智論という下級生に付き合っていたのだろうと問われた時も、そうだとハッキリ肯定する事はできなかった。
 好きだと言われた事はある。言った事もある。だが、手を繋いだ事もなかったし、キスをした事もなかった。休日に連れ立って二人でどこかへ出掛ける事もなかった。
 思い出すのは、いつも並んで座った唐草ハウスの縁側。
 肩を並べ、庭を眺めながらゆっくりと会話をする、その、時の流れが心地よかった。
 そんな関係は、傍から見ている人間にしてみればもどかしかったかもしれない。本当に想い合ってるの? なんて冷ややかな視線で見ていた者もいたのかもしれない。
 だが、魁流はこれだけは断言できる。自信を持って口にする事ができる。
 自分は、織笠鈴が好きだ。
 興味本位で後を付けたあの日、唐草ハウスの入り口で鈴は魁流を振り返った。

「いらっしゃいよ。入ってみるといいわ」

 恋に落ちた。
 学校では決して見せた事のない笑顔。あの柔らかな視線が、嘘だったとは思いたくない。あの瞬間から、自分は鈴だけを見ていた。
 君は?
 魁流はゆっくりと瞬く。
 鈴、君はただ、自分の意見を従順に受け入れてくれる存在が欲しかっただけなのか? 自分を善とし、他を悪とする世の中しか認めたくなかったのか? 争う事を好まなかったのは、言い負かされれば自分が悪に成り下がってしまう事になるからか? 争えば負けるかもしれないからか? それは、自分が完全な善人ではないという事実に、気付いていたからか?
 完璧な善人など、存在はしないのに。
 今でも、そんな事は認めたくはない。嘘だと思いたい。だが―――
 もし俺を想ってくれていたのなら、死ぬ前に、俺を頼ってくれてもよかったのではないのか?
 俺はそんなに頼りなかったのか? それとも、やっぱり君にとっては、自分を正とし、他を悪と位置付ける事が、生きる上で最も重要な事だったのか? 死んだ後、俺がどれほど悲しむかなんて事よりも。
 顔をあげ、墓石を見つめる。
 鈴、俺は悲しかった。君が死んで、本当に悲しかったんだよ。
 学校の屋上から身を投げる時、君は俺の事を少しでも考えてはくれたのだろうか? 俺の存在が脳裏を過ぎって、でも君は、それでも君は、そんな俺よりも死を選んだという事なのだろうか?
 猛暑の中、ペットショップの前で君の声を聞いたと思った。子犬を目の前に泣き崩れてしまった俺の姿を、君はどんな気持ちで空から見ていたんだ? 女々しい、馬鹿な男だと嘲笑っていたのか? 俺は、俺は本当に悲しくて、ただ君に逢いたくて――――
 小さく唇を噛み締める。
 許せないよ。
 初めて、正直に鈴を恨む。
 許せない。君が許せない。
 いつの間にか、辺りに少しずつ明るさが広がる。
 夜が明ける。
 魁流は遠くへ視線を投げ、もうすぐ陽が昇るであろう空を眺めた。赤紫に染まる東の空。その美しさに瞳を細め、魁流は再び墓石と向かい合った。
「もう来ないよ」
 口に出してみる。
 もう来ない。ここには来ない。逃げる自分を克服するまでは、自分はここに来る事は無い。
 鈴、俺はもう君を追い掛けない。天国や楽園なんてものは追い求めない。何もせず、口だけで幸せを望み、星にお願いなんてもうしない。
 いずれ、両親にも会えるように、自分を変える。
「ごめんね」
 さよならの言えない自分を不甲斐無く思い、その場から去ろうとして、ふと足を止めた。
 何かが微かに漂った。
 怪訝に思い、首を捻った。雑木林の端っこ。朽ちた地蔵を守るように、紅い花が揺れていた。その隣には白い花。
 梅か。
 気まぐれに近寄ってみた。
 もう、春だな。
 ためしに紅梅の枝へ手を伸ばしてみる。鼻を寄せ、思った香りとの違いに眉を寄せた。
 青臭い。
 もう一度試してみる。最初は一瞬良い香りだと思った。だがすぐにそれは消え、青臭さが漂う。それは時々キツくもなり、魁流は紅梅から手を離した。
 梅の香りって、こんなもんなのか?
 せっかくなので白梅にも手を伸ばしてみた。今度は大して期待もしなかった。
 やっぱり、ほとんど甘さは無かった。だが、こちらは少しだけ、爽やかだった。甘くなく、少しキツくて、でも清々(すがすが)しくて、穢れない。
 派手さは無い。桜のような華々しさも無く、だが品が良い。和紙を連想させるような趣がある。光沢紙ではない気品。
 俺は、白梅の方が好きだな。
 魁流は白い小花を見つめて、知らずに口元を綻ばせた。





 結局は、まったくの部外者だったワケだよな?
 美鶴はぼんやりと頬杖を付く。
 思い出すのは、前日の光景。
 自分たちなんてあの場所に居る必要は無かったワケだし、それに、結局のところ、ツバサはお兄さんに会えて、良かったのだろうか?
 想像とはかけ離れた展開。尊敬していたはずの兄の、まさかの醜態。
 ツバサ、幻滅したかな? ショックだったかな? 本当に尊敬してたみたいだし、あれほどまでに会いたがってた人なんだからな。
 また変に自分を責めたりしなければいいけど。
 虚ろに視線を宙に漂わせる。そんな姿に、聡がぶっきらぼうに声を掛ける。
「試験勉強はいいのか?」
 言われて我に返る。
「期末、明日からなんだけど」







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